祝い事から締め出される人たち

結婚式場を見学しているが、まぁしんどい。

自分が人並みの人生を送れてこなかったという事実を折に触れて突き付けられる。

 

数え上げたらキリがないが、たとえばまず、プロフィールムービーや会場の展示に幼少期からの写真を用いるのを前提として話される。私の幼少期〜学生時代の写真は、絶縁した母親が全て持っていってしまったので、事実上散逸している。

特に花嫁にとって結婚式とは、大切に育てられてきた日々を振り返って両親に感謝を伝えるものらしい。私には、両親に大切に育てられてきたという事実はない。

また、式を挙げるカップルの7割が、式に際して親族からの援助を受けているらしい。私は3割側の人間なわけだ。

そもそもご祝儀3万自体、過去の自分には払えなかった金額だ。一番の親友の式だったとしても、ポンと出せたかは正直怪しい。なお期間があれば貯められるという話でもない。収入が少ないだけでなく、3万円貯められるだけの、貯金をするための思考パターンや生活習慣といった資本がないからだ。

「お祝いなんだからそのくらいみんな出してくれると思いますよ」と式場の人に何度か言われた。パートナーからも、「祝い事なんだしそのくらい出してもらってもバチは当たらないと思うよ」と言われた。過去の自分のような人間は、どんなに祝いたい気持ちが強くても、無い袖を振れない。結婚式をするような人たちの間では、そういう人間はこの世にいないことになっている。会場見学を重ねる間にそれを何度も知らしめられる。

 

相場の3万円という金額自体、バブル期の相場のままだという。実態にそぐわない形骸化したしきたりほど、嫌いなものもない。

そもそも自分たちの都合で呼びつけて、時間もお金も使わせるということ自体気が引ける。なお私が呼びたい友人たちのうち、結婚式を挙げるもしくは挙げたという人は一人しかいないので、お互い様は基本的に成立しない。それもあって、ゲストの経済的負担は極力軽くしたい。だから、会費制は譲れない事項のうちの一つである。

しかしブライダル業界はほとんどの場合ご祝儀制を前提としているので、会費制を貫こうとすると、ほぼ確実に自己負担額が大きくなる。先日挙式した友人も、当初は会費制にしようと考えていたが無理だった、これくらい許してくれという気持ちで泣く泣くご祝儀制にしたと言っていたのだが、そういうことかと実感した。

それから、人数合わせの招待ってなんで存在するんだろうと不思議だったが、一人当たりにかかる金額を安くするためだったり、会場を借りるのに最低保証人数が設定されていたりする。そういうことも、見積もりを出してもらうようになって初めて知った。カップル間で人数差があると恥ずかしいとか、人数が少ないと恥ずかしいとか、そういう見栄の問題かと思っていたが、更に実質的な理由が存在していた。

 

へー、みんな3万ポンと出せたり、親から援助受けたりするのが大前提なんだー、と、そういう事象に直面する度、白けた気持ちになる。なんで自分らの祝い事のことのはずなのに、そんな気持ちにさせられなければいけないんだろう。

相談カウンターの人や会場で話をするプランナーには、上記のような思想は隠す他ない。ある種相手のいる業界の悪口である内容も含まれるし、言えるわけがない。人生の一大事となる重要な話をする場のはずなのに、自分の今までの人生やそれによって形成された価値観が、隠すべきものとされてしまう。

 

私が将来的に志しており、この世の不平を正すために絶対必要だと思う仕事を生業にしている先輩がいる。その先輩が、招待された式のご祝儀を払うのがキツいと言う。仮にも福祉業界の末席を汚している身なので、福祉やそれに類するエッセンシャルワーカーの給与水準が低いのは自分もよく知っている。そういう人の生活を犠牲にしてまで挙式に大金を払う意味って、何なんだろう。

 

今の自分は、パートナーに引っ張り上げられる形で、かつてなく充実した生活を送っている。それは単に経済的にということもあるけど、何を大事にして何をやめるかなど、価値観そのものについても、一つ一つ教えてもらいながら、今までよりも所謂上流層に向かっていると感じている。それは事実だろう。

でも、自分の生活水準を引き上げる度、過去の自分を切り捨てる心持ちになる。もう、過去の自分のような生活をしている人たちに寄り添うことはできないんだと思わされる。そういう人たちが、どんな思いで日々を送っているか、自分が一番良く知っているのに。

単に自分にお金をかけていいと思えるだけの自己肯定感があるかないか、という話だけでもないと思う。上流に向かう壁を越える際には、かつての自分の価値観を否定する必要がある。

 

親しい人を集めて美味しいものを食べて小綺麗な空間で和やかに過ごしたいというただそれだけのことが、どうしてこんなに難しいのだろう。

金を出せない人間には、人並みに慶事に携わる資格はないのか。ここでもまた、人並みを望むことは許されないのか。

結婚式くらい、全ての人にとってアクセスしやすいものであってほしい。こんなにも贅沢品であってほしくない。金銭的な面以外にも、男女別に求められるドレスコードなんかもそうだ。他にもいくらでも例は挙げられるだろう。何もかもこの世で一番マジョリティの人間向けに設計されている。

 

会費制ご祝儀制くらいはもう少し主催側でコントロールできるものだと思っていたが、相場がある以上予想よりもどうにもならないようだ。でも、生育歴的な辛さに直面するであろうことはある程度覚悟はしていた。

金銭的な面も思想的な面もクリアした結婚式を無事に挙げられる日は、果たして来るのだろうか。

我が同胞にして戦友に捧ぐ

前パートナーのことは、血の繋がったきょうだいよりも同胞のように思っていて、今後も親族に近い距離感で関わっていけたらと思っている。

 

彼とは長い付き合いで、知り合ったのは9年前、付き合ったのは7年間もの歳月になる。

ざっくり人生の1/3くらいは関わりがあることになる。交際期間は人生の4/1に及ぶ。そんなに長く付き合ったのは人生で初めてのことだ。

それまでは自分が情緒不安定すぎて付き合う相手には毎回1年前後で振られていた。彼とこれだけ長く続いたのは、互いに互いしかいなかったからだった。

趣味の集まりで地方から始めて東京遠征した際にたまたま知り合った。あの会合にどちらか片方でも出ていなければ全く違った人生を歩んでいたであろうことを考えると、偶然が人生に与える影響のデカさにビビる。

知り合った際にツイ垢を交換しており、そこからは深夜のメンヘラツイにふぁぼ(死語)を飛ばし合うなどして親交を深めた。Twitterがなければこうはなっていなかったことを考えると、Twitterが人生に与える影響のデカさにもビビっている。なお現パートナー=婚約者も元々ツイのフォロワーである。私の人生Twitterしかないのかよ。

 

私にとっては、親がしんどいという話を初めて何の否定もなく受け入れて共感して聞いてくれた相手だった。それに、1話したら10伝わるというような感覚も初めてだった。どうやら私と彼は、使用する言語の周波数も思考や感性のパターンも、極めて近かったらしい。こんなに話が通じる相手って世の中に存在するんだ、という衝撃だった。

 

彼とは本当に文字通り病める時も貧しい時も苦楽を共にした。

最初の2年くらいはこちらが地方、彼が東京の遠距離恋愛だった。2ちゃんの遠距離恋愛スレを見るなどして自分を奮い立たせていたのが懐かしい。

その後は彼がこちらに越してきたのだけど、地方で周りに何も無くて誰もいなくてお金もなくて、でも趣味だけは続けたくて無理をして時々東京に行って、という生活を送った。

ボロアパート6畳間に二人で身を寄せ合って暮らしていた。備え付けの10年もののエアコンから出る温風は10cmほどの距離にしか届かず、室温が外気とほぼ変わらないのに電気代が2万近くなる月があった。まともな暖房を追加で買えるような金が貯まることはなかった。

東北の盆地の底冷えする1階の部屋では、冬場は寒すぎて布団から出られない日が続いた。行き過ぎた万年床により引っ越す時には床が腐っていた。

とにかくお金が無くて、野菜なんかは悪くなったものしか食べられず、それを無理矢理調理して食べて、私が無理をして「美味しいね」と言ったら「美味しくないよ!!!」とキレられて、「私だって本当に美味しいとは思ってないよ!!!!」と喧嘩になったこともあった。ドラッグストアのポイントやクーポンを駆使して生活用品を買い、端数を引き出せるゆうちょ銀行が役に立った。今は硬貨の出入金には手数料がかかるようになってしまった。

 

そういう生活の中で二人きりで過ごしていると、二者の間で物凄い強度のエコーチェンバーがかかり思想がめちゃめちゃ先鋭化し、二人で一つのツイ垢を作ってTwitter上で大暴れしていたりした。その頃の私たちは完全に二人で一人の存在で、魂のシャム双生児だと冗談抜きで思っていた。無理に分離しようとするとダメージを伴うので離れられない。でも魂が共鳴しすぎて、一緒にいると双方共にどんどんボロボロになってしまう。そんな状況が7年間続いた。

 

Twitter上で大暴れしていた私たちに対しても疎遠にせず、オフで会った際には二人にラーメンを奢るなど温かい交流を続けてくれていたのが現パートナーである。この人が根気強く双方に関わり続けてくれたおかげで、私は徐々に彼と分離しても強烈な孤独感に苛まれなくなってゆき、彼も私がどこぞの馬骨とくっつくよりはと一定程度納得して私を手放すに至った。それがなければ、今頃心中or無理心中していてもおかしくなかった。

そういういきさつなので、現パートナーも彼を知っているどころの騒ぎではないのが助かっている。彼は私の人格形成にも多大な影響を及ぼしているため、彼抜きに私を語ることは難しいのだ。彼が私を東京に連れ出してくれたし、フェミニズムに目覚めさせたのも彼だ。彼と出会わなければ私は多分、大学をドロップアウトし地方にいるままその辺の封建的な男と結婚して、一生東北から出ない人生を送っていたと思う。

 

もう以前のようなパートナー関係に戻ることはないだろうけど、彼は苦難を共に乗り換えた戦友であり、半絶縁状態だったり親が離婚した後生きてんのか死んでんのかも知れなかったりする血縁のきょうだいよりも、よほど真の同胞である。

現在は、時々連絡をとってたまに会ってお茶する程度の距離感で上手くやれている。あまり近くなりすぎるとまた傷つけ合う可能性があるので、このまま適切な距離を保ちたい。

離れても、彼の幸福を願う気持ちは変わらずこの胸にあり続けている。

結婚式のこと/構想

最近は暇な時、自分が結婚式をするならと考えている。

とにかく自分たちの文脈に適ったものにしたいという想いが強い。

※このブログの全ての記事に共通することだが、同じようなことを考えている人に一人じゃないよと伝えたいこともあって私の趣味でネットの海に個人的な考えを放つものであり、考えの異なる人を否定する意図は無いことを初めに書いておく。

 

挙式はしなくていい。

特定の宗教に縁があるわけでもないので、宗教色のある式はしっくりこない。文脈が無いから。

かといって人前式も違う。自分たちの結婚は、誰かに誓うものではなく承認してもらうものでもなく、自分たちで決めたものだから。

結婚証明書にサインするというのは、婚姻届を出すならそれで用は済むのでは?と思っているのでやらない。指輪交換も、婚姻届を出すのに合わせて既に身につけているはずなので改めてやるのは違和感がある。

ここで説明しておくと、私にとって結婚とは「私に対して法的に義務が生じてもいいとまで思ってほしい、伴侶として私と同じだけの覚悟をしてほしい」というものなので、法律婚であることに意味がある。婚姻届を出すことが本質だ。そのため婚姻届という言葉が何度も登場している。

よって、儀式的なことをする挙式は無し。世話になった人たちを呼んで食事会くらいはしたい。そうすると厳密には結婚式とは呼ばないらしい。結婚パーティーと呼ぶのがおそらくしっくりくる。調べてみるとどうも、所謂1.5次会というものに該当するみたいだ。

 

ではそもそも何故そういう催しをしたいのかというと、今まで支えてくれた人たちに「ここまできたよ」というのを見せたいからだ。

それは私の場合は主に友人たちで、私の方は親族として呼ぶのは父親一人になりそうだ。

友人たちには本当に世話になった。中学高校と実家が辛かった時代は勿論だし、大人になってから出会った友人にもたくさん支えられた。友人たちがいなかったら、私は文字通りここまで生き延びられなかった。だから、「あなたたちのおかげでここまでこれたよ、生き延びて、安心して身を任せられる伴侶にも巡り会うことができたよ」という一つの到達点として、改めてお礼を伝えて晴れ姿を見せたい。

それは私の自己満足だけど、私が呼びたいと思っている友人たちは、いつも私の私生活に興味を持って話を聞いてくれている人たちなので、結婚パーティーに呼んでも義務感ではなく真の関心から来てくれるだろう。なので安心して呼ぶことができる。そういう人だけ呼ぶつもりだ。

双方の客を合わせても、人数は20人くらいになる予定だ。そのくらいの人数だったら、全員にテーブルインタビューしてもいいくらいらしい。

親族友人を差し置いて赤の他人である司会者に自分たちの半生を説明されるのは違和感があるので、実際に当時を知っている人たちに紹介してほしい。なので、幼少期〜小学生時代については父親、中学高校時代についてはそれぞれの友人、大人になってからの友人からも一言ずつもらえたら嬉しい。人数からいくと時間的余裕はあるはず。

結婚式に特に文脈のないゲームや出し物をするのはなんか変だと思うので、余興は無し。プロフィール紹介のテーブルスピーチをお願いする以外は、歓談と写真撮影に時間を使いたい。

 

アンチご祝儀制なので、絶対に会費制にする。そこはずっと前から決めていた。自分たちの自己満足のために呼んだゲストに会費以上の金を払わせるのは道理に合わないし、バブル期のままの金額設定もおかしいと思っている。その相場のままのブライダル業界にはお金を落としたくない。

ただ会場は、そういうオペレーションに慣れてないところで滞りなく開催するのは結構難しいみたいなので、結局結婚式場から選ぶことになりそう。でも、極力納得いく価格のところにしたい。

会費をどのくらいにすべきか考えている。ちゃんとしたコース料理を食べてもらいたい気もするが、そうすると1万円超になる。その金額を出すなら普通にレストランに行くのではないか。それだったら着席ビュッフェ形式にして6000円くらいに落として、絶対的な負担を小さくした方が来やすいか。ゲストは何も本気で料理を食べることを目的として来るわけじゃないもんな、会費制なら尚更。料理がちゃんとしてないとガッカリなのはご祝儀制の場合か。

 

演出について調べていると、"新郎は笑いものになってもいい"みたいな価値観が一定数あるようで、それは"男は笑いものになってもいい、女が笑いを取るのははしたない"という双方に対して有害な性役割規範の表れだと思うので嫌だ。自分はパートナーに率先して笑いを取ってほしいとは思わないし、自分もそういう場で笑いを取るつもりはなく、パートナーのことも笑いものにはせず大事にしたい。

 

ケーキ入刀は、別に初めての共同作業とはならないけど、私が抵抗のある類いの意味は含まれていないようだ。「食糧を分かち合う」というのはその日食べるものにも困る時期も長かった私にとっては重要な意味がある。ウェディングケーキのデザインを考えるのも楽しいだろう。どうせならやりたい。

ファーストバイトは例によって「一生食べさせる」「一生ご飯を作る」という意味合いが嫌なのでしない。

ラストバイトも、別に結婚をもって源家族からの自立とするつもりはないので多分しない。

サンクスバイトはどうだろう。お互いの幼馴染にするくらいならいいかもしれない。今まで見守ってきてくれたお礼を込めてということなら。

でもそもそも、人前でケーキを食べさせること自体絵面的に微妙な気がする。自分たちでテーブルを回ってケーキサーブをするだけでいいかな。

 

アンチ家父長制なので、結婚=家からの独立という前提のあることはしたくない。私たちはお互いに源家族から自立して大分経ってから出会っているし。

あと私にとっては親族よりも友人たちの方がよっぽど生きる上で重要だった。だから、親族と友人の扱いに差をつけることはしたくなく、全員一律にお客さんとして迎えたい。よって、双方の親族も友人たちと変わらずゲストの立場で呼びたいと思っている。もてなしは自分たちでやる。自分たち二人が主催するパーティーなので。

 

ウェディングドレスについても考えていた。折角なので着たい気持ちはある。

成人式は出席したけど、奨学金をむしってくるような親と絶縁していた最中だったのでお金がなくて振袖を着れずスーツだった。その心残りもあって、ちゃんと一般的に晴れ着とされるものを着たい。白無垢よりウェディングドレスの方が自分には婚礼衣装として馴染みがあるので、そちらにしたい。

「あなたの色に染まります」という意味合いの白は嫌(むしろパートナーを私色に染めてる部分が多いくらいの関係性だし)。

白色は維持の難しさから元々特別な色であったということらしいので、そっちが先ということならいいことにする。自分が納得することが大事だ。

 

基本的に文脈の無いことはしたくないタチな上にアンチ家父長制なので、結婚式というものについて考えるのはかなり苦労する。でも、自分たちにちゃんと文脈のある結婚式ってなんだろうと考えるのは楽しかった。

これがどのくらい実現するのかは分からないし、心変わりがあってここに書いてあるのとは違うことをするかもしれないけど、ひとまず最近考えていたことをまとめておくこととする。

子供生むのって怖くね?

子供が欲しい。

これは中学生の時に初めて交際を経験した時から思っていることである。好きな人との子供が欲しい。

好きな人と自分の遺伝子を混ぜた存在なんて、愛おしいに決まっている。子に先立たれた親が狂ってしまうのも頷ける──子供を持つどころか自身も子供である時分に、そんなことを思っていた。

 

ただ、子供は生んだら基本キャンセルできない。今の職場が職場なので、子を置いて行方を晦ますなどの力技でキャンセルする親も目にはするが。

 

障害児であるとか、それに準じた育てることに困難の伴う特性があったら、ということが怖い。

職場では、知的障害や発達障害を持つ子を育てる親から直接話を聞く。

勿論苦労話も多く、障害の特性が虐待を誘因している例も多々見る。そうでなければ、親が本当に上手に子に関わっていて、自分はとてもあんな風にはなれないと思わされる。

 

自分自身、不注意優勢で思考多動のADHDで、もしかしたら定型ではないASDも入っているかもしれない。

母親は今思えばADHDだったし、私と同じように非定型のASDだった可能性もある。まあこれも私と同じくCPTSDの側面の方が強かったのだと思うが、発達障害っぽいところも大いにあった(私も母親も、発達性トラウマ障害だとすれば、発達特性的な面は先天性か後天性かの区別はできないのだが)。

父親はおそらくASD。人の感情の機微に疎く、察してちゃんでメンヘラの母親を受け止められるはずもなく、嫁姑関係を調整する能力は皆無で、結果として家庭は私が生まれる前から崩壊していた。

妹は分かりやすいASDで、しょっちゅう母親と衝突していたし、その余波を私は喰らっていた。私自身今はもう、こちらの心情や状況の文脈を完全無視して正論で論破してくるタイプの妹と関わる気はなく連絡先をブロックしている。

発達障害の遺伝的要因としては役満である。ADHDでもASDでも何が来てもおかしくない。

 

ASDの人全てが、人の心が無いというつもりはない。親友の兄弟もASDなのだが、真っ直ぐで人の好い性格をしているのを知っている。しかしともかくうちの家系のASDは人の心を持たない系であり、母親とそっくりな私とは相性が絶望的に悪いのが分かっているので、子供が妹や父親のようなASDに生まれてきたら……というのが一番怖い。

「妹と相性が合わない」と私に吐露してきた母親を覚えている。配偶者が頼れないからといって、その妹の実の姉である私にそういうことを言うんじゃない。子供にもたれかかるな。大人なんだから、頼りにならない配偶者を選んでしまった尻拭いくらい自分でしてくれ。「"アスペルガー症候群"なんじゃないか」と言って、妹を病院に連れて行っていたこともあった。付き添わされたが、どんな結果だったかは覚えていない。

 

 

そして、そんな家庭で育った私は、とにかく精神的に余裕が無い。気力体力が少なくてキャパが小さいし、それにギスギスした家庭しか知らないので、放っておけばそっちに寄っていってしまうだろう。定型発達の子供すら、まともに育てられるか分からない。

 

でも、子供が欲しい。

はじめは、先述のように、好きな人と自分の遺伝子を混ぜ合わせた存在を生み出したかった。それは今思えば好きな相手と同一化したいという願望の行き着く先であったようで、過ぎた依存であったと思う。

精神的に落ち着いた今はそうは思っていないが、やはり子供は欲しいと思う。どう考えれば、子供に願望を押し付けずに済むのだろうか。

 

ざっくり見聞きした範囲では、「身近な人が子供を持っているのを見ていいなと思ったから」「自身が温かい家庭で育ったから自分もそういう家庭を作りたくて」のような、本当に何も考えていないふわっとした理由か、もしくは「家を継いでほしい」「老後の世話をしてほしい」のような何らかの役割を期待して、という理由ばかりであった。

そういう人たちは、もし自分の願望を果たすことのできない子供が生まれてきたら、どうするのだろう? まさか、捨てるわけではあるまいな。何故、100%自分の子供が五体満足の健常者だと信じ切ることができるのだろう? そうでなかった時のことを一切考えていない風なのが怖すぎる。

 

今のところ聞いて納得できたのは、「子供のいない人生に飽きたので暇つぶしに」「生む機能が備わっているので使ってみたい」の2つだけだ。それだったら、どんな子供が生まれてきても齟齬は生じないだろう。

でも、私はまだそこまで割り切れる境地には達していない。

 

自分の思いの中で、これならまだ適用可能かなと思ったものが一つあって、「パートナーやその家族に会わせたい」というものである。

パートナーは知れば知るほど理想的な家庭育ちで、家族や親族も皆、温かく気さくで、程良い距離感で連帯している。赤の他人である私でも、そのコミュニティに身を置くととても心地良い。願わくは自分の子供にも、この空気の中で育ってほしい。この心地良さを知る人が絶えてしまうのは勿体無い。この碌でもない世界の中で、少しでもこの空気の割合を増やしたい。

それもやっぱり、子供に自身の叶わなかった願望を託しているに過ぎないのかもしれない。それでも、この理由であれば少なくとも、どんな子供が来ても辻褄の合わないことにはならないだろう。

できるかは分からないが、子供を育てる時はこの一族の空気を感じられる距離で育てたい。実務的な支援を得られる可能性というのもあるが、何より私自身が、「この世界も悪いばかりじゃないのかもしれないな」と前向きになれるから。

無性愛者に生まれたかった

全性愛者で複数愛者である。無性愛者とは正反対といってもいい。

シス女性で、一人の男性とパートナーシップを結んでいるので、今はパッと見ただのノンケにしか見えないことだろう。

パートナーは前述のセクシュアリティについては理解してくれており、嫉妬心も特段強い方ではないようなので、現状特に問題は出ていない。

今はこのパートナー以外に恋愛関係にある相手はいない。できれば今後も出てこないでほしい。何故なら大変だから。

既に一人と相思相愛で良好な関係にあるのに、更なる他者との悶着で浮き沈みするのは本当にアホくさい。相手は一人で充分だと思っていても、好きになる時はなってしまう。勘弁してほしいというのが本音である。

 

生育環境の問題で愛着に課題があり、特に恋愛によって情緒が乱れやすい。

人を好きになることがなければ、感情に振り回されることもないと思った。

仲が良かった高校の同級生がFtXで、特定のグループに所属することはなく、様々なグループを自由に渡り歩いていた。それでいて、どこにいっても歓迎される人たらしっぷり。理性が強く、感情に振り回されることはないように見えた。その全てが私にとって、なりたくてなれなかった憧れの姿だった。

 

いや冷静に考えれば別に無性愛者全員がそうなわけではないだろう。

仮に自分が無性愛者だったとしても、その子のようになれていたわけではない。そこだけじゃなくて他の全ても違う。

それにしても、自分の場合は愛着の課題が恋愛という形で表出しがちだが、同じような方向で愛着に課題のある無性愛者の場合はどのような形になるのだろう。そもそもこういうタイプは無性愛者にはならないのかもしれないが。もう少し当事者と話してみたい。

 

複数愛者という概念を知ったことで自分もそうなのではないかと自覚したのは少し前のことだが、今にして思えば昔からずっとそうだった。

中学時代に付き合っていた彼女と別れないまま高校で男子と付き合い出した(高校が別だったので多少疎遠にはなったが別に嫌いになったわけでもなかったので別れるという発想がなく、双方に紹介し合意形成していた。二人とも普通に受け入れていたが今思うとすごいな)し、その彼のことは結果として10年引きずるくらい好きだったが、付き合い始める前から付き合っている間も振られて悶絶している間もその後まで先述のFtXの子のことはずっと好きなままだった。感情に波はあれど。そして数年ののちその子に振られて数日寝込み、その時既に長い付き合いで事情も知っているまた別のパートナーに介抱してもらっていた。複数人を同時に好きになる性質をこの時ほどバカバカしいと思ったこともない。

なお、中学の時にどういう話の流れか、特段親しくもないギャル系のクラスメイトに「二股ってどう思う?」と聞かれて「全員が了承してれば別にいいんじゃない」と答え、「大人だね」(?)という返事をもらったという記憶がある。その頃から既にポリアモラスな価値観の人間だったということか。

 

元々恋愛感情が友情と地続きになっているタイプで、自分でも区別がつきにくい。友情と恋愛感情の境はどこにあるのかと昔から思っていたけど、どうやらかなり曖昧な方らしい。

(それを見極めようとする過程で、参考に他の人の恋愛観を訊ねることが増え、すっかりそれが面白くなってしまった)

しかもその上自動的に一人に限定されるということはないし、性別で絞り込まれることもない。つまり世間で言われる判断基準が殆ど通用しない。これでは自分で分からなくても仕方ないだろう。友達にも独占欲は湧くし嫉妬もする。そういうもんじゃないのか? そのくらい親しい相手とは身体接触も不快でない、むしろ触れたい。そんな調子である。

友人として親しさが上がっていけば、全員そのまま一直線に恋愛対象に収束していってしまう。多分自分の恋愛観はそういうことなのかもしれない。

実際、常にその時のパートナーが一番の親友という感じで、何を一緒にしても楽しいし何でも話せる。これは今まで付き合ってきた中で例外はない。それに比べると、他の友人にはどうしてもいくらか気兼ねしてしまう。かつては交際関係にあり、それをやめてからも今に至るまでずっと一番近しい友達として付き合いのある中学時代の元彼女でさえも、交際関係になくなってからはその頃のように用事無くやり取りすることはなくなった。これは自分の中で「付き合ってるんでもなければそういう風に寄り掛かってはいけない」という感覚があるせいもあると思う。相手も自分にコミットしてくれている関係でなければ、用事も無く話しかけたり頼ったり甘えたりしてはいけないと認識しているらしい。これも何というか、あまり器用な/健全な対人関係様式ではない気がするので改善した方がいいのかもしれないが。

 

少し前まで3人で付き合っていたが、結論からいうとかなり大変だった。

私のことを好きな2人と同時に付き合っていたのだが、複数人と付き合うのは、やったことがない人が「いいな〜」とか「ズルじゃん」とか思うような良いものではない。普通に難しい。当たり前だ、一対一でパートナーシップを結ぶのだって真面目にやればかなり大変な作業なのだから、その頭数が増えれば単純に足し算しても増えるわけだし、実際には3人の間でもっと複雑な関係性がはたらくのでそんな単純な式では表されない。1+1が2ではないのだ。それ以上人数が増えることは、とてもじゃないが考えたくはない。

また、私の考えでは、相手2人が私のことを好きということは私が一番気を遣って関係を回さなければいけないということだ。構図としては私がホストで相手2人がゲストみたいなものなわけで、そういう意味でも大変なのは当たり前だ。

 

複数愛者は、単数愛者からすると加害者だったり勝者だったり強者だったりするかのように言われがちだが、少なくとも自分にとっては、こんな性質は無い方がいい。キャパの大きくない人間にとって、好意が募る相手の人数が増えることは負担でしかない。傷付くリスクが増えるだけだ。

 

とにかく、人生の伴侶たるパートナーがようやく現れた今、他に恋愛対象となってしまう人間が現れないことを祈るばかりである。恋愛に振り回されるのはもう二度と御免だ。

鉄フライパンは最高

半年ほど鉄フライパンを使っている。

かなり気に入ったので、よかったところを伝えたい。

※この製品特有の特徴と、鉄フライパン一般にいえることと、サイズによる内容が混在している。

 

使っているのはこれ。

フライパンジュウ&ハンドルセット 
Mサイズ / ビーチ(ブナ材)

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https://jiu10.com/introduction.html

 

1.取っ手が取れる

数ある鉄フライパンの中からこの製品を選んだ理由がこれ。取っ手が取れる鉄フライパンって他に無いんじゃないか。使わない時に場所を取らないし、焼き上がったら皿としてそのまま食卓に出すことができる。一人暮らしの時は本当にこれをそのまま皿として直に食べていたし、二人暮らしの今は大皿としてテーブルの真ん中に起き、取り皿によそって食べるスタイルになっている。洗い物が減るし、料理を熱いまま食べられる。ステーキなんかに使うナイフも、皿を傷付ける心配をせずに使うことができる。本当によく考えられた製品だと思う。

 

2.焼き料理が美味しくできる

鉄フライパンに切り替えた大きな理由はこれ。大体何でも美味しく仕上がる。特にステーキを美味しく焼けるのが嬉しい。家でステーキを美味しく焼けたら誰でも嬉しかろう。実際、鶏も豚も牛も、下手な外食より美味しく焼ける。目玉焼きも美味しい。Mサイズでは鶏肉なら2枚一気に焼ける。

 

3.半永久的に使える

2に続いてこれも鉄フライパンに切り替えた大きな理由のうちの一つ。テフロンは便利なのだが、寿命を見計らって買い替えなければならないという手間がある。月に2回くらいしかない不燃ゴミの日に出すのも面倒だし、そろそろかな?と考えるのも判断がつきづらくて嫌だし、気に入って使っていたものが再入手出来ないなんてことになったら探し直しである。これが私は苦手で、気に入ったものは何年も使い続けたい人間なので、寿命が実質無いというのは大変ありがたい特徴である。しかも使い続けると育っていく。このタイプの道具が私は大好きである。だから同じような特徴を持つ革製品も好きだったりする。ちなみに取っ手も同じく油を塗って育てていくタイプの無垢材なのも地味に嬉しい。

 

4.油切れが気にならない

鉄フライパンは油を毎回落とす必要がなく、熱いうちにお湯で流しながら束子をかければ済むので、手入れがとても楽である。熱いうちにとは書いたが、正直に言うと普通に翌日とかに水を入れて火にかけてから洗ったりしている。それでも特に傷む様子はない。テフロンは油切れが悪く、洗うのが面倒だった。ちなみに束子は亀の子束子製のカルカヤ束子を使っている。

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https://www.kamenoko-tawashi.co.jp/howto/5375

 

5.揚げ物にも使える

テフロンで揚げ物をすると傷む。それに、4で書いた通り、洗うのも大変になる。鉄フライパンならそのどちらも解消できる。

 

6.鳥にも安全

今は我が家に鳥はいないのだが、いつかまた迎えられたらいいなと思っていたので、加熱時に有害なガスが発生しない鉄フライパンに変えようと思ったというところもあった。後述するが結局テフロンフライパンも買って使っているので、実際に鳥を迎えることになったら改めて考えたいと思う。少なくとも鉄フライパンに慣れることはできたのでよかった。

 

デメリットも書いておく。

1.振れない

取っ手が取れるようになっているため、フライパンを振るって調理することが出来ない。私は無理矢理やっているけど、危ないので非推奨。炒飯とかは鉄で作ると美味しいはずなんだけど、この製品よりは中華鍋とかの方がいいかもしれない。

 

2.火加減が難しい

レシピ通りの火加減にして焦がしたことが何度かあった。テフロンより弱い火で短い調理時間でいいっぽい。同じ料理を何度か作ってようやく感覚を掴めるなんてこともあった。

 

3.一度に大量に焼けない

Mサイズは内径20cmで、フライパンとしては小さい方になると思う。大量の作り置きをしたい時なんかは、小分けにして何度も焼く羽目になり、かなり面倒な思いをした。これが一番の決め手となり、これとは別に大量に作る用・焦げやすいものを作る用に26cmのテフロンフライパンを買い足して使っている。

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これが安くて軽くてよかった。信頼のパール金属製。

 

4.油を多く使う

鉄フライパンは油を多めに引く必要があるので、脂質制限には向かない。なるべく少量にするようにして使ってはいるが、テフロンなら完全に油不使用でも焦げずに焼ける。

 

5.取っ手が焦げる

強火で取っ手を付けたまま使ってしまうと焦がしてしまう。本来は火にかける時は取っ手を外して使う製品だし、基本弱火で使うものなのだが、人に使わせる際に私が説明しなかったため焦げてしまった。でも万一取っ手が使えない状態になってしまっても取っ手だけで売っているので、少し高い(¥4000)が買い直せる。

 

 

結論としては、用途に合わせてテフロンと使い分けると何かと勝手が良いと思う。でも、一人暮らしでこのフライパン一つで(主に一度に焼ける量の面で)用が足りていた時は別に必要なかったので、本当は鉄フライパン一つだけでもやっていけそう。Lサイズを買えば一度に焼ける量が少ない点に関しては解消できたと思うが、Mサイズは一人用としても二人用としても使い勝手がいいので、最初に買うサイズはこれでよかったと思っている。追加購入したテフロンフライパンを大きいサイズにしたことで、サイズと材質の特徴それぞれで使い分けられるようになったので、無駄がない買い方ができたように感じている。

相手の姓を奪いたくない

私は一応フェミニストを自認しており、仮に男性と法律婚することになれば当然自分の姓にしたいと思うものだと思っていた。極力、社会で主流となっている男性優位の風潮に断固として拒否を叩き付けたいので。

しかしながら、実際に結婚の可能性が現実味を帯びてくる段になってみると、そうではなかった。

 

姓はどうするかという話題を振ると、相手は「どっちでもいいよ」と即答してくれた。本当にそういうところが信用できる人である。

そう聞いて最初に思ったことが、「この人の姓を奪いたくないな」ということであった。

 

私は所謂毒親育ちであり、極力自分のルーツを消したいという思いがあり、あと両親の離婚やら何やらで姓が変わったり戻ったりしていたのもあって、正直姓の方にはあまりアイデンティティを置いていないと言えた。下の名前は親に付けられた名ではあるが自分でも気に入っており、自身を表すものとしてしっくりきている。どちらかといえば、私にとって重要なのは名の方だった。

対して相手は、家族仲は理想的と言えるもので、一家は皆その姓をLINEの表示名でもメインに名乗っており、家族LINE(家族LINE!実在するのか!)では全員がほぼ同じ名前になっていたりする。その微笑ましいさまを見ていると、この人をこの姓のままにしてあげたいという思いが込み上げてきたのだった。私の一存でこの人からこの名前を奪いたくない。

 

念のため断言しておくと、姓が同一だからこそ家族の絆が云々みたいな言説は本当に害悪だ。私のような、どの姓になろうとどちらの親とも自身の同胞とも親族とも良好な関係になることはできなかったような人間を真っ向から否定する内容である。

だから、自分に上記のような思いが浮かんだことには正直驚いた。この世にはそういう種類の感情も存在するのか。

ただこれは、相手が"「どっちでもいいよ」と即答"してくれたからこそそう思えたことで、仮に当然のように「こっちの姓にするでしょ」みたいな態度を取られたら、大反発して自身の改姓したい希望との板挟みになり、大変困ったことになっていたであろう。本当に相手には感謝しかない。

曰く、「自分自身特にこだわりは無いし、親もそう」。

理由を尋ねると、少し考え込んだ後「親から一家の一員としてではなく、個として尊重されて育てられたからかな」とのことで、しみじみ素晴らしいご両親である。この親にしてこの子あり、と折に触れて思う。

 

選択的夫婦別姓が既に導入されていたら、私はどうしていただろうか。やはり自分のルーツを消すために改姓したいと思っただろうか。

自分のフルネームは、昔の友人曰く「森羅万象って感じ」で、相手の姓は人名らしいものなので、改姓したら今の姓よりちょっとミスマッチかもしれないと感じる。少なくとも、一見した際の印象は変わってしまう。それを考えた時、自分は案外このフルネーム自体は嫌いではなかったらしいことに気が付く。

親と無関係な人生を歩むことは本当に難しい。早く、独立した個人として生きていきたい。